昭和四十八年八月一日 御理解第二節
「先の世まで持って行かれ、子孫までも残るのは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてると云うことがない。
夏の信行を昨日で終らせて頂きました。今年はやはり教祖様の九十年の祈念のお年柄でもあったからでしょうか。何とはなしに異様な迄な熱烈な修行が無事に終らせて頂きました。
その修行と云うことですけれども、信心に修行と云うことは無くなったらもう値打がない。例えばお吸物に味がですかね、中に入っている魚なら魚のお吸物ならお吸物に味合よく魚は入っておってもそれに青いものが入っていないようなもの。例えば青いものを一寸入れます。だから修行そのものはそれは大したことではない様であって実は欠かすことが出来ないものであると云うこと。
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昨日は九州の信心と云うことに就いて平田さん話して居られました時に、それを頂いたんです。
九州の信心、これは九州と云うより全教と云うてもよいかも知れませんがね。何とはなしにそういう生き生きとしたものがない。
実際食べてみれば味合よいし、食べてみれば美味しい。金光様の御信心は。けれども、それに青味が欠けて居るのが現在の金光教じゃないかとこう思うのですね。
話を聞いて見ますと夏期信行は全教挙げてしとるんですけども、それをしてない教会と云うのが多いと云うことですね。ですから本当に信心に修行はつきものですが、何故つきものかと云うと、修行そのものが本当ではないのですけれども、どこまでも信心は昨日の御理解の様に真心になれと云うことです。いわゆる和賀心になれと云うことです。
ですけれども修行と云うのは、それをいよいよ有難いものにするためのものであって、修行を抜きにしたら色彩を欠いでしまうと云う程しに修行と云うことは大事なことです。
だから修行の精神、修行の心と云うものが信心には形は変わってもいつもなからねばいけない。
神徳は信心すれば誰でも受けられる。ところが実際にお徳を受ける人は実に少ない。その少ないお徳を受けられた方達の知っておる限りの方達を指折り数えて眺めてみます。
それで昨日甘木の先生の話を大変聞かせて頂いたんですけど、大体昨日平田さんがお見えられてどういう事を私達は頂かなければならんだろうか。言葉は少し違いますけど、実を云うたら平田さんの話されることはもう、もっともっと深く広く合楽では頂いて居ると云う感じがしますね。それを一生懸命まあ説かれるわけです。
そうでしょうが、皆さんそう感じられたでしょう。もっともっと深い広いもの合楽で頂いたものは。それも実にスムーズに頂いておる。そして平田さんのお話を頂いておると、何か強引さというもの、スムーズさを欠くものがあると感じられますね。そしたら私御神示に頂いたのが、丁度平田さんが口をこじらせた様にしてね、物言い憎そうにして、甘木教会と云おうとしとられるのに、甘木こうかい、甘木こうかいと云う様にそのごしらせて教会を出らんでおるところを頂いたです。だからどういう事かと云うと、平田さんの信心を通して甘木の先生の信心のまあ、云うならば他所では話されない、これはまあここまでの話ですよと云った様な全てをですね、甘木の教会の信心の全てを公開して下さっておる。と云う様なことで私共が頂かなければならんのはそこだと。
現在の甘木の教会の信者はどういうことでつながって居るかと云うと、皆親戚と云った感じ、でまあ殆ど熱心な家の中からお道の教師が出てないところが一軒もないと言われる位に、お道の教師になっとられるそうですね。甘木の親先生、そしてその子供、いわゆるお弟子さん、本当の直弟子です。弟子がそんなに沢山出来て居られる。七十名かと云うておられる。ですがそれが親戚の内には甥が教師になっとるとか、姪が教師になっとるとか、兄弟が息子が娘がと云う関係を拾って行くと皆がそういった道の上での信心と云ったものになって來る。と、云う程しの御比礼を受けて居られる。全教の十分の一は甘木関係だと云われる。大したことですよね。
夕べの御礼信話会に一緒に参加しておられてその話をしとられました。いわばこういう話は甘木関係の裏話だから公開は出来ないと云った話を聞くことが出来ると云うことが、平田さんの話の、合楽の人達が頂かんならんのはそこに全てをかけていいと思いましたね。一生懸命説いて居られる事は実を云うたら、合楽では皆さんがもっともっと深く広く、しかももっとスムーズに、云うなら皆さんのものにはなっていないにしましても、聞いて居られると云うことです。ですからそういう、例えば当時甘木王国と云われる位に全盛を極めた時代の甘木の信心と云うものが私共が手本にしなければならない事は勿論です。
ですから、そこのところをです、只表面に出て居る甘木だけでなくて、内側から見た甘木なども聞かせて頂くと云うことはそれは得難い話である。そういう意味でおかげを頂いたと云うことが言えると思います。
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今日の御理解、神徳と云うことについて、これは私この前に見えました時にも、筆墨を持って見えとられましたから皆沢山いろいろ書いてやられました。
私は書いて呉れと決して申しません。けれども此処の先生にいっちょ書いて上げようと書かれました。神と云う字一字書かれました。この前障子紙長いのに、ところがです、どうしたことか神と云う字がはみ出てしまったんです。
昨日のはやっぱり皆さんに書かれてから神徳を同じ様に神さまと障子紙いっぱいに書かれました。ところが余りに墨を沢山つけられました。ですからこう書かれたときに神と云う字の申すというところがポカっとほげた。もう本当に誰も気が付かなかったでしょう。唯私だけが、この前もこげんじゃったが今度も私に書いてやられるのがこうじゃったと云うようなそこにいろいろ考えさせられました。
だから本当に甘木の初代の信心をあれ程頂き止めておると云うけれども、今何十億かの財産だそうですがね。けど三井、三菱辺りに比べるとまだそのほん微々たるものと云われる。けれども、なんと云うてもあれだけ沢山の会社を持っておられ、自分は御用に専念して居られて会社の方はどんどん繁盛しておると云うこと。もう店の事放しきっておられると云うこと。そしてその財産が全部神様のものだと思い切って居られること。ですから自分が云って居られる様に、私は神様と財布は一緒だとこう云って居られる。財布と神様と共同で使うとると云うこと。これは大した事だと、とても真似の出来ることじゃない。ね、皆さん。けれどもやっぱり目指すところは今日の御理解。信心すれば誰でもお徳が受けられると云うところは、どういうところかと云うとです、信心と云うものはどこ迄も神様の心を心とすると云うことです。
そこで神様が水でありなさるなら私達も水の心にならなければならない。神様が油でありなさるならこちらも油の心になることに精進しなければならない。水と油はいくら一緒にしたって混ぜ合わんでしょう。
それがこれはお徳を受けられた方達のことを私共が知っとる限り拾うてみてです、その方達の信心の流儀は色々ございましょうけれども、これだけは共通しておると云うことはです、云うならば欲を捨てて居られるという事です。いや神様の一切が御物であると思い切って居られると云うことです。
だから平田さんからのお話をです、それほど欲を捨て切っておると云う信心を大体聞いたが一番素晴らしいですね。事実自分が頂いとられるのですから。
それを近頃青年学校とか信心理想、どこにも一つの理想と云うものは、何処でもと云うか大概の人は持っている。なら合楽の場合話賀心時代を創ると云うことに、云うならば執念をかけておる様にですね、これでなければ世界に広めて行くと云うなら、これをいわば看板にするという、引提げてのものでなければならないと私は確信しておる。だからそれはそこの流儀ですから良いのですけれども、そうしてどこからでもよい、例えて云うなら、お徳を受けたという人達のある教会辺りの沢山の何千人と云うお参りがお大祭のときあると云った様な教会でそういう話を聞いて助かると云うのではなくて、そこの先生がおさすりをしてやられると病気が治ると云った様な、徳を受けて居られる。だから色々様々にありますけど、その共通したところは欲が無いと云うことです。その欲を捨てて居られると云うことです。
なら欲を捨てて居られると云うことはどういう事かと云うと、一切が神様の御物と云うなら何十億と平田さん財産を持って居られましてもそれは平田繁吉個人の物ではない。まあ云うならば、神様と同じ、例えば銀行に預けてあるとするならばです、神様の名をもって預けるのが本当だと思うておられるのです。けれども財布は一つじゃから遣わせちゃ貰うけれども、そういうお徳を受けて居られる。 ですから、御徳 あの世にも持って行かれこの世にも残る程しの神徳を、例えば受けると云うことは、信心すれば誰でも受けられるのだけれども、お互いがそういう我情我欲を放させて貰えれる様な信心を目指す者の上に御神徳は受けられるものである。
信心と云うものは只拝みよります、何十年信心しよりますと云うだけではいけないことが分かります。
そこで今私が申します様に神様が水ならこちらも水になる気持、神様が油ならこちらも油になる気持じゃなければ、一緒に混じらん。そこに日々の信心修行が必要だと云うことになります。修行無しにはそういう心も開けてきません。
これは皆さんも知っとられるお徳を受けられた方達だと思う方達の話を聞いてごらんなさい。もう必ず欲を放してある。いつかここに見えました隅田先生なんかでもやっぱりそうです。
久留米、甘木、小倉あたりの場合でもそうです。もうこと神様の事と云うたらもう一もなければ二もない。
久留米の記念祭が終って、今から直会と云うときに小倉から総代さんがお使いにやって来た。小倉の総代さんが、それでお取次をされるとこれを持って行きゃ分かると桂先生が仰った。そして大きな風呂敷を只持って来られただけであった。これを持って行けばちゃんと分かると桂先生は仰った。すると石橋先生はつと立ち上がってから、その御大祭のお初穂全部そのままそっくり、その風呂敷に包んで渡されたと話が残っとります。その位だん、この位取ったっちゃよかろうとそういうものがさらさらないのです。
これは私も自分でたまがる位にそういう意味での欲はないです。と云うことは大坪総一郎のものではない、神様のいわば御物だと云う風に思うておるからです。そんならば、これは金だけではありません。物でもそうです。いろんなことに在ります。美術品、骨董品の様なもの、好きなものに間違いはありません。けれどもそれが割れたからと云うて、破れたからと云うて、私にそうらしもうたと云う心が起こらないと云うことは欲が無い証拠でしょうが。先ず内で楽しんでおります。
段々おかげを頂いて、それがいっぺんで出来るとは思われませんけれどもです、あの世まで持って行け、子孫までも残ると云うことは欲を放すということ。と云う信心からでないと神徳は受けられないと云うこと。それは大変難しいこと。けれども私共はね、御神意を体した神様の心を心として、神様の思いを思いとしてと云う様な具体的な信心修行をさして頂いとる内にです、段々神様が水であるならばこちらも段々水になって來る。そこに段々混じり合ってくる。それこそ神様と財布は同じじゃなかろうか、自分はと云う程しに限りないおかげにつながって行くことが出来る。それを御神徳と云う。 信心の徳を受けると云うことは、神様と昨日平田さんが云うとられる様、大体神様即人間、人間即神様、大体本質はそうだと云う様なことを話しとられたですね。
ですから私共がその気になったら誰でもおかげが受けられると仰るのは、そういう本質的からのもの、ここんところは言葉だと思うですね。例えば牛やら馬やらがです、神徳を受けようと云ったってこれは本質的に違うでしょうが。けども人間は万物の霊長であるとか、神の氏子とかと云うことですから、人間であって神だ、神様であって人間だとここにそういう根本的なところを分からせて貰うてです、人間は即神だと云う頂き方。だったら人間は誰でもその気になればお徳が受けられると云うことが分かるでしょう。
誰でもおかげが受けられると云うのは、生神とはここに神が生まれると云うことである、この方がおかげの受け始め、皆もその様なおかげが受けられると仰っておられる。いいえ私は神てんなんてんならなくてよかてんじゃなくて本質的にそういうもの頂けるものを持っているのは人間なんです。
だから金光様の御信心はそこを目指すのが信心である。そういうところへ気付いてそこを目指して頂く者の上に御神徳は限りなく頂けるものですね。どうぞ。